介護を知りたい 高齢者の生活 家族にできること

母との日々は【生きる】を選択する日々だった

こんにちは!ノアです。

今回のお話は
寝たきりから回復して帰宅した
私の母の帰宅後の様子と
感じた問題点です。

こちらの記事は
【高齢者に家族としてできること】
の最終記事です。

この前のお話は こちら からご覧ください。

 

居宅生活の始まり

北海道ではGWの連休頃に桜が咲き
梅は5月10日過ぎに咲きます。

母が帰宅したその春は
不思議なことにGWの直前に
桜と梅の花が一緒に咲き始め

それは私の記憶にある限り
はじめてのことでした。

母が帰宅した細やかなお祝いに
私たち夫婦と甥と母を連れて
食事がてら
近くの河川敷に行きました。

梅と桜が咲き誇り
下の方の枝に咲いた花は
手に触れることもできました。

緊急入院から寝かされきり、
回復期病棟でのリハビリテーション、

施設入所と
施設でのリハビリテーション、

帰宅の決心と帰宅準備。

母が帰宅するのに1年1か月を
慌ただしく過ごして
やっと訪れた美しい季節は

私にはまるでご褒美のように
感じられました。

GWの終わり頃には
母の生活も落ち着いて

私と甥と母と三人で
大騒ぎをしながら

1年間放置していた
調味料類を整理したり

キッチンを使い勝手がいいように
母と甥で相談をして
物の配置を決めたり

保管物質について
甥と確認したりしました。

甥の負担を軽減するため
最初に予定していた

夕食のみの配食は
そのまま依頼することとし

また甥が不在でも
母が安心できるように
24時間の緊急通報についても
お願いしました。

これでできることは
整えたつもりでしたが
限界があったことが
少しずつ明らかになっていったのです。

 

食事の問題

母はそもそも食事がおろそかになり
栄養状態が落ちて緊急入院に至りました。

1人ではあまり料理をする気にも
ならなかったのは当然だったと
周囲が思ったのは母が入院してからです。

元々好奇心も旺盛で
料理も食べることも好きだった母でした。

美味しそうな食事があると
食べる気持ちにもなるでしょうし

栄養の問題は解決されると
私は思っていました。

施設で元気になったのも
ちゃんと食事をしていたことは
大きかったと思います。

配食の業者も十分に吟味して
選びました。

しかし現実は母に言わせると
「お弁当を見るとうんざりする」
状態になるのに
あまり時間は要さなかったようです。

はじめは一緒に食事をする甥に
「食べきれないから
食べるのを手伝って」
と言っていたようなのですが

そのうちに母はほとんど食べないで
配食を甥に食べてくれと言い始め

甥が色々と料理をして
同じものを食べるようにしたようです。

ただこれも難しかったようで
味はかなり美味しかったと思うのですが

若向きの油が多い料理は
高齢の母には厳しいものが
あったようでした。

毎日届く配食は余ります。

そのうちに配食は
兄に持って行ってくれと
言うようになりました。

このことを私が知ったのは6月末でした。

その頃には私が札幌に帰ると
冷蔵庫に手のついていない
前日の配食がそのまま
残っていたりしたのです。

私たちが札幌に行った時も
お寿司や母が好きなピザなど
食べに連れて行ったりしましたが
確かに食べる量は少しでした。

施設の看護師長が言ったように

もう老化のために
食欲も激減していたということかも
しれません。

 

医療の問題

母には定期的に
総合病院に行って
持病を診てもらうように
言ってありました。

病院には馴染みのある
介護タクシーが
連れて行ってくれていました。

ところが驚く話が母から出たのは
5月末頃だったと思います。

「訪問診療の先生は、
話しやすい先生で安心した。」
と良い報告をしたあと

「もう一つの病院は
この間行った時に
断ってきたから」

とあっさりと言いました。

「どういうこと?」
「前の病院より遠いいし
来てくれる先生がいるから」

遠いいと言っても
かかる時間は前の病院より
せいぜい10分多いかどうか程度です。

この時に私の中を不安がよぎりました。

「何かあったら来てくださいと
言ってもらえたから大丈夫」

母の方が病院通いは
慣れています。

判断能力がない高齢者ではないので
このように言われて
私も何も言えませんでした。

母の場合はこの時に総合病院を断り
訪問診療の医師に
全てを委ねたことが
大きな運命の分かれ道になりました。

長く飲んでいた薬の副作用で
経過観察を要した
間質性肺炎の悪化が

定期的な精密検査を中断したことで
見過ごされてしまったのです。

適切な医療の確保を
どう考えるのかというのを
私は母のことを通じて
考えるようになりました。

このことは延命処置をどうするか
にも通じる問題があると思います。

生命維持を考えるときに
極端に言うと延命治療というなら
栄養剤の点滴一つでも延命治療という
考え方もあります。

投薬も症状を抑えて緩和し
本人の苦痛を和らげる薬もあれば
積極的に治療する薬もあります。

寿命を延ばすとか
寿命だから仕方ないとか
どのように考えていくのか

私たちが自分で選択できる
つまり自分で選択しなければならない
今はそんな時代なのかもしれません。

 

家族の気持ち

私は食べない母に
食欲が落ちたのは

高齢者の鬱が原因ではないかと
考えて様子を見ていました。

ところが母の日常は
鬱状態の高齢者には程遠く

甥がフリーなのをいいことに

天気がいい日などは
ドライブに連れて行ってもらい
海岸線を走ったり

車で1時間ほどのところにある
フルーツの産地に行って
果物を買ってきたり

1度は予告なしで150キロ離れた
私の住む町にも出没しました。

体力のこともあり
連日ではなかったようですが

6月は週に2回は
そうして出かけていたようです。

それが7月中頃から
微熱が続くようになり

甥は訪問診療の時に
主治医に相談しましたが
主治医は解熱剤を
処方するだけでした。

後でわかったのは
どうやらこの発熱は
間質性肺炎が進行していた
サインだったようです。

家族としては
この時点で主治医が
検査を指示してくれていたら
という思いがどうしても生じます。

8月末には40度近い高熱を出し
私は仕事を休めない状況だったので

甥と泊まり込みで来てくれた姪が
母の介護をしました。

母からみんなに迷惑をかけるので
施設に戻ると言われたのはこの頃です。

春までいた施設の相談員に話すと
すぐに受け入れることが可能であること

入所前に熱の原因を
調べてほしいと言われ

兄が母を病院に連れて行った結果
間質性肺炎で入院となりました。

私は病院の医師に
もしもの時は
延命を希望しないことを

本人と家族の意思として
伝えることを忘れませんでした。

母は入院して1か月後に病院で
亡くなりました。

施設から帰宅して5か月間の
自宅での生活でした。

振り返ると緊急入院してから
帰宅までの1年1か月は

本人の希望というよりも
私の願いと後悔で動いた
日々だったような気が
しないでもありません。

家に帰るというのも
私の勝手な思いだったのではないか
という気持ちも生じましたし

あのまま施設で落ち着いて生活していたら
もしかすると今も元気でいたかもしれない

などど考えても仕方がないことを
思ってしまうこともありました。

これはなにが正しいとか
なにが間違っていたとか
そんな物差しで計れることでもないですし

これだけやったからいいと
自分を納得させようとしたり

なにもしなかったから悔いが残ったとか

様々な形で残る思いも必ずあって
100%後悔しない送り方も
ないのかもしれないとも思えます。

どこで自然に委ねるのか
どこまでマンパワーで介入するのか

これは生死の選択にもかかわる
永遠の課題なのかもしれませんね。

 

この前のお話は こちら からご覧ください。

 

 

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