こんにちは!ノアです。
テレビで女優の秋野暢子さんが
尊厳死協会に入会した話しを
していました。
死を考えるのは
生を考えること
私もそのとおりだな
と思うのですが
みなさんはどう思いますか?
生きていることに驚いた
福祉支援員の仕事を初めて
間もなくのことでした。
私はある高齢女性に
会いに行きました。
行った先は病院です。
看護ステーションで
大部屋にいると案内され
部屋の番号を見て
入室しました。
その人は6人部屋の
右の列の真ん中。
「こんにちは!」
いつものように入ったものの
その人の姿を見て
ベットについている名前を見て
私はどうしたらいいのか
わからなくなりました。
骨と皮ばかりと見える
細い腕には
痛々しい点滴の針
気管には穴が開いていました。
口を半開きにして
少し上向きに横たわった人は
私が過去の記録で
その人に抱いたイメージを
見事に裏切っていました。
頑固で、気丈で、
時々意地悪なことを言って
シャキシャキした高齢者
だったはずなのですが、
何かを話しかけても
はたして通じるのか、
聞こえても反応できないのか
それともその状態でも
何か反応するのか
私には皆目見当が
付きませんでした。
看護婦が入ってきて
「今日は顔色がいいんですよ」
私に言いました。
「声をかけてみてください」
言われてはじめて
『話しかけていいんだ』
と思いました。
「Kさん。こんにちは」
話しかけてみた時、
目玉がぎょろりと動きました。
ドキッとしました。
動いたのは目玉だけでした。
声も出せず
天井を向いた頭も動かせず
指1本動かせず
でもその人は
確かに生きていたのです。
生かす医療
Kさんはこのような状態で
生きていましたが
それは本人が望んだこと
だったのでしょうか。
Kさんには生死もわからない
娘が一人いました。
なんとしても
娘に一目会いたいと
思っていたかもしれませんし、
あるいは
このように動けない状態で
生きていようとは
思っていなかったかも
しれません。
本人に選択の余地があったのか
医師の説明はあったのか
もう30年前の話しです。
医師や看護師は
命を救うために力をつくしました。
とにかく命を救う
命を生きながらえさせる
それが医療の最大使命でした。
インフォームド・コンセント
日本では命の戦いに対して
医師の判断に全てを委ねる風潮が
長く続いてきました。
医学のことは何もわからないから
医師に「こういう治療をします。」
と言われて
「お任せします」
と答えることが
多かったのではないでしょうか。
このような状況に対して
20年くらい前から
インフォームド・コンセント
の大切さが言われるようになりました。
「こういう病状です」
と説明があり
「こういう治療方法や
あるいは別な治療方法があります。」
と選択肢を出され
「どうしますか?」
と問われます。
つまり必要な情報提供が
医師によってなされ
本人や家族は
その説明を理解して
自己選択や自己決定を行い
医師との合意のうえで
病気と向き合う。
これがインフォームド・コンセントです。
ところが肝心の本人や家族は
この自己決定や
自己選択のための訓練が
何もされていません。
命のあり方について
自分の意思で決めることを
回避しようとする動きもあります。
「先生はどう思いますか」とか
「お任せします」と言って
同意のために差し出された書類に
署名をするのです。
医師は命を救い
生きながらえさせることに
力を尽くします。
結果として寝たきりで
生涯医療処置を
要する状態になったとしても
場合によってはそれも
医師に委ねるという
自己決定の
結果だったりします。
選択する
自分で選ぶ
自分で決める
この当たり前のことが
残念ながら
日本ではまだ
一般的ではないようです。
にもかかわらず
介護保険は
自己選択と自己決定を
立ち位置として
組み立てられました。
施設に入所するのも
民法の契約行為になります。
ケアプランに疑問や不満があったら
ちゃんとその確認をする。
希望を述べて
サービスの組み立てを決める。
病院に運ばれたら
そこで何が起きているのか
医師の説明に向き合う。
これらの行動が
介護が必要になった先で
どう生きていくのか
どう生きていきたいのか
そして人生の終わりを
どのようにむかえるのか
ひとつひとつを決めていきます。
今はそれが可能な時代だということを
しっかりと受け止めてみませんか。
あなた自身と
あなたが愛する人たちのために。
このブログ内の記事について 『記事に「........」と書いてあるけど、 『こういう時はどこに相談に などの質問やコメントなど
質問等については
また質問の時は 自分のこと など 併せて教えてもらえると 個人情報については こちらからの回答のため以外に 安心してご連絡ください。
|